戻る - 参加 

「たまよみ」

2007/8/29 (Wed)
2007年8月10日のインサイドパークホームラン

和製英語ではランニングホームラン。
漢字では走本。
ディズニーランドのお城のような外野フェンス、その向う側に広がる海。画面ではとても小さく見えるサンフランシスコの球場内野ベースをあれよあれよという間に走って一周してきた彼は三打数三安打二打点でMVPを獲得した。まるで、おもちゃの国のベースボール物語のようなこの場面を、きっと忘れることはないだろう。
2007/5/7 (Mon)
ズームアップ

たとえば晩年の福田平八郎の絵のように、えーとこだけを見せることができる年寄りになれないものか。
どこか調子が悪くても剽軽に笑いとばせて、今日の楽しみを見つけることができて、周囲の若人にも希望を抱かすことができるような、ちょっと見栄っ張りの年寄りに。
2007/4/12 (Thu)
方便

「ひとりで行ってもおもしろないやん」て言うてみ。
そしたら一緒に行ったげるさかい。
2007/3/28 (Wed)
つげぐち?

「アイスの値段を間違えてた」とあとで店主に言ったことがきっかけになってしまったのか。そういえば最近、あの双子のアルバイトを見かけないと気づく春。
2007/3/28 (Wed)
自分のためには泣かないと決める。

ガンの痛みで横にもなれない人が、一ヶ月先の娘の卒業式に出たいと願う。
私の命を縮めてもいいから、今なら身代わりになりたいほどに、その人に生きる時間をあげてと思う。そんな風に思えるのは子供がいない自分だからだとしたら、私は私を少しだけ許してあげられる。
2007/3/28 (Wed)
日曜日

手作り市で母のつくったステンドグラスを売る。
ブログを休んで短文を毎日書く。
ひざの痛みをあとにひけない理由にして、体重を3キロ落とす。
できることできそうにないこと、とてもちっちゃなことを思いついて、いい気分になる日曜日。
2007/2/6 (Tue)
大丈夫。

不安にかられてしょうがない時は「大丈夫」と書いた箱にこころを入れてロックする。それでも不安は空気のように、水のように箱の中に入ってこようとするものだから、そうしたらまた小さな箱にこころを移してロックする。何度でも、少しずつ小さな箱に移していけば、そのうち固くて頑丈なこころになっていく。
2007/1/23 (Tue)
じぶんどき

まったく問題ない時間に「いま、大丈夫?」と電話をかけてくれる人もあれば、まさにご飯を食べようとした瞬間に電話をかけてくる人もいる。そういう人に限っておかまいなしの長電話。相方が話している横で先に食べるのも味気なく、冷めてまずくなっていくおかずを見るのはかなしくて、見えない相手の間の悪さにだんだん腹さえ立ってくる。おまけに消化にも悪い。
時分時(じぶんどき)、、そんな日本語があったのはいまは昔のはなし。
2007/1/22 (Mon)
ありがとう、メリー。

結婚して家を出る数年前、私の不在を埋めるかのようにやってきたメリーが1月5日に死んだ。散歩嫌いで広くもない庭がほとんどの世界だったけれど、おばあちゃんを見送り、弟一家に3人目の甥が生まれたのを見届けて静かにいった。その20年近い日々、足腰は弱っても顔はかわいいままで、たまに帰る私にも愛想よく尻尾をふってくれた。
母から最期の様子を聞いたとき何とか泣かずにいられたのは、去年の暮れに帰ったときの姿が、このまま動物として生きていくにはあまりにも哀しいものだったからかもしれない。ひとまず終わることができてよかったと。
一番長い時間メリーといた母が「もう何も飼いたくない」というのにも「おつかれさん」と声をかけてあげたいけれど、言えばやっぱり泣いてしまいそうで言えずにいる。
2006/12/23 (Sat)
冬の夜

なんとなく寂しい。
何かに気兼ねして、帰りたいのに帰れない。
ふたりで鍋をつついていても、
指の先までぽかぽかしても、胸のどこかが冷たくて
ちょっと寂しい。
ここにない足りないものが、どこかにあるのかどうかさえ、わからない。
2006/8/3 (Thu)
暑い日には。

真夏の昼下がり。南向きのサッシを閉めて、カーテンも全部ひいて、外の熱気を入れないようにする。北側の玄関を少し開けて温度の低い風を通す。大きめの音でCDを聴く。ひんやりとした床をさがしてゴロンとなって、脳みそが喜ぶ本を読む。オトナの知恵と夏休みの子供の本能。
2006/8/3 (Thu)


ミスチルを聴いていると、ときどき泣いてしまうことがある。
その歌詞は、まるでダライ・ラマの言葉を身近な物語りにして届けてくれているかのようだ。決してハッピーではないけれど、哀しんでいる人のこころにそっと寄り添う。肩におかれた手のぬくもりを感じる。
2006/8/3 (Thu)
幸福な音

いつかの夏の夕暮れ。夕食の準備できゅうりを刻んでいたら「世の中のお父さんたちは、こういう幸せな音が聞けないんだなあ」って言ったね。
うまく説明できないけど、なんだか嬉しかった。その音を幸せだと思う気持ちこそが幸せだなあって思った。そして、きゅうりを刻んでいるというだけの私ごと、認められた気がした。
2006/6/29 (Thu)
静かなしごと

最近、仕事場の電話が鳴らない。仕事そのものがない時もあるけれど、そこそこ忙しい時でもほとんど鳴らないのは、おそらくパソコンメールのせいである。
きっと何人いても、それぞれの目の前のパソコンの中で仕事が進んでいくのだろう。電話の向う側にいる人や隣に座っている人のペースを乱さないというメリットと、お互いが何をして何を考えているのかがわからないというデメリット。共有できないことが増えていくのはちょっと寂しくて不気味。そして電話が苦手な私は、ますます電話から遠ざかる。
2006/6/29 (Thu)
悩むことはない。

優しくされれば優しくしたい。
批難されれば、同じぐらい相手の欠点を見つけようとする。
「この人はどうして(自分に対して)こんな態度なんだろう」と思ったなら、それはきっと相手が自分に抱いているイメージと同じだ。
だから、冷たい言葉を言われて落ち込むことはない。自省をすればいいだけ。答えはすべて自分のなかにある。
2006/2/27 (Mon)
へとへと。

雨が続いた日の晴れ間。たまった洗濯物を干して、取り入れて、アイロンをかけて片付けて。明るい陽射しに照らされてあらわになったほこりをやっつけて、底をつきかけのお米をリュック背負って買いに出かける。座る暇なく次から次へとやらねばならぬことが頭に浮かび、文字通り、眼が回る。
でも、そんなあれやこれやが、明日には当然のような顔をしているのが日常。そしてそれを支えるのが家事というもの。とても基本的な一日のスケジュールが滞りなく進行するようにリードしている実感。それを喜びに感じられたなら、きょうはとてもよい一日となる。
2006/1/31 (Tue)
変えてみる。

何の気なしにキッチンバサミの位置を変えてみた。大きく変えたわけでない。怪我をしないように、引き出しの奥に入れていたものを手前に移しただけである。
ただそれだけなのに、驚くほど使いやすくなった。使うのが楽しくなったと言っても言い過ぎではないほどに。
自分では感じるか感じないほどの小さな小さなストレスがあったんだと今になって気づいた。
誰かの本に、いつもやっていること、例えば朝、掃除をした後にお化粧しているなら、順序を逆にしてみる。それだけで何かが変わる、と書いてあったけど。まさに。単に口紅の色や髪型を変えるよりも、身体の動きに関わることを変えてみるのがポイント。想像以上に効果は大きい。そんな風に考えながら生活を見直してみる。いつもと違う場所へ、方法で、すでに景色は変わっている。
2006/1/17 (Tue)
弱点を知る

十分に考えてやっていても、時には失敗することもある。思い通りにならなくて自信をなくすこともある。でも落ち込んで自分の力不足を思い知った後、次にやるべき課題が見えてくる。それは失敗してみないとわからなかったこと。
幾度も目にし、耳にしてきた言葉は、自分の身に起こってはじめて実感となる。
「失敗を恐れてはいけない」
客観的に見て、まだまだ進歩すべき余地がある。それはとても幸せな気づきであり、自分をあきらめないためのコツとなる。
2005/11/30 (Wed)
映画力

何にでも「力」をつければいいというものではないけれど、何かをしたりすることによって、自分にパワーがつくというのなら、私にとっては映画である。
大きなスクリーンに集中している時間。次のまだ見ぬシーンにどきどきしている時間。喜怒哀楽、ストーリーを追いながら、心のヒダヒダもストレッチしてほぐされてゆくのがわかる気持ちよさ。
もちろん、なかには「あんたの創造力には付き合えない!」っていうものもあるけれど。でも「ずっと観ていたい」と思う映画を観た後は、前と同じものを見たり、同じことをしても、すべてが新鮮なのだ。
そしてその新鮮な自分に戻れることが、日々の生活のなかでは、とても大きな力となる。
2005/10/14 (Fri)
日常

以前雑誌でみた写真。写っていたのは、足型がくっきりついたビルケンシュトックのサンダル。ブランドの本家であり、物を大切にするドイツの人だったせいか、それは単に古びたものではなく、とても愛着に満ちた好ましいものに見えて、今も時々思い出す。
同じように、うちの玄関に脱ぎ置かれた年季の入ったスリッパを「なかなかええやん」と思える時がある。他人が見れば、小汚いものにしか見えないし、実際そうなんだけど。
片づいている部分と散らかっている部分のバランスに、そこに暮らす人間の温もりやセンスが表れる。良し悪しは「日常を愛している」かどうか、それだけかもしれない。
2005/9/7 (Wed)
そういうひとに、なりたい。

いつか、何も持っていないことを誇れる人間になりたい。
その代わり、目には見えないけれど信頼できる人とのつながりや、大切な人との揺るがない気持ちや生きてゆく術や、なにかあった時にも乗り越えられる強い心を持ちたい。気持ちよく人を笑わせる力や、励ます言葉や、日常を愛する気持ちを身につけたい。
そして、さっぱりと生きて、笑いながら死にたい。
2005/9/7 (Wed)
彼について

我慢強い。負けん気が強い。弱音を吐かない。わかりにくいギャグを言う。口が悪い。人の嫌がる攻め方をする。頑固だ。確信犯的に口を滑らせる。話し好き。部分的に沸点が低い。ときどきお調子者になる。一般的な男性並みに鈍感。
それでも、ひとにしてあげられることがたくさんあるのがスバラシイ。
2005/8/3 (Wed)
ひとつの条件として。

『機嫌のいい妻は人生の宝だ』という、とある雑誌の見出しがあった。なるほど、と思ったので手帳に書いておいた。そのことをポロっと話した相手(男性)がやはり気に入ったらしくメモしていた。
思うに、機嫌のいい夫は人生の宝とはなるまい。なんか違う。家のなかで女が機嫌よいと、細々としたことがうまくゆく。浮き沈みが大きい女だからこそ、機嫌のいい時がことさら平和な時間と感じられるのだろう。夫は普通で充分。気の毒だけど、逆に迷惑な方向へ行ってしまいそうだから。
件の男性も、身につまされていたのか、あるいは、ご機嫌な奥さんにお礼の言葉として贈るつもりだったのか。どっちにしても重要な問題であることに違いない。
2005/7/29 (Fri)
もうどこにも居ない。

すぐ隣に死はある。
いつも忘れていることをとても近い人を亡くして気付かされる。
遠くに住んでいたし、死に顔を見たわけでもなく、お墓参りに行ってもいないので、亡くなったことすら実感がなく忘れているときが多い。かと思えば、もらった本や共通の話題であった映画や食べ物の話題につながる何かが目についた途端、バサっと音をたてて幕が降りたように周囲が閉ざされる時がある。
夏生まれの人が亡くなった今年の夏は、時々ひんやりと冷たく、いつでも簡単に泣いてしまう。
2005/6/8 (Wed)
道草

私の話には落ちがない(らしい)。「オチ」と言われても噺家でもあるまいし。
話しているときに、テーマから微妙にはずれた話もよくする。それは自覚症状があって、でも自分ではちゃんと細い細い糸で繋がって出てくる話なのに「突拍子のない」挿話ととられることが多い。「それで?」と言われても困る。
連想ゲームというゲームがどんなものだったか忘れたが、どうも「連想」することが癖になっているようだ。
テレビで向田邦子さんの脚本に出てくる、姉妹の会話のとりとめのなさを話題にしていた。それがとてもリアルだと。
確かに、母方の叔母達が集まると、まさに縦横無尽に話題が変わる。その癖なのか、母はひとりでもその力を発揮して相手を戸惑わせる。女としての遺伝子か、母から受け継がれたものかはわからないけれど、身に覚えがあるだけに避けられない。
2005/6/8 (Wed)
自信のない背中

ニュースで、小学校に乱入した不審者からの避難訓練をしている子供たちをみた。
「なんてこった」
こんなニュースを流すテレビにも、それを観ている私にも、そんな世の中にも、ばっさりとお別れしたくて泣いてやる。
子供たちには、不審者よりも出会わなくてはならない、美しい言葉や小説や絵や映画があり、そして何より無条件に愛してくれる他人がいる。
でも、おとなですら信じていないそんなことを、誰が子供たちに伝えるのだろう。
2005/5/30 (Mon)
あなたは誰?

携帯電話から聞こえてくる声は、この世のものとは思えない。衛星中継のギャグのように、遅れて届く声、噛み合わない会話にいらだつ。タイミングが合わないから、黙って相手の声に耳を傾けることに集中する。こちらがしゃべる時には、聞き取りにくいかと、つい大きな声になってしまうのも恥ずかしい。往来で、そんな風に無防備になっている自分を想像するだけで、いやな汗が出る。
2005/5/9 (Mon)
愚痴る

結婚して間もない頃、久しぶりに会った同級生に「愚痴らないね」と言われたことがある。独身の彼女は、よっぽど既婚者の話し相手にされていたのか、そんな風にほめられたのは後にも先にもその時だけなのでよく覚えている。私自身、嫁姑、夫婦間のトラブルはさんざん聞かされて育ったので、被害者の気持ちはよくわかる。でも今思えば、私が彼女に愚痴らなかったのは、まだ愚痴るほどのことがなかったせいもあるが「ええ格好しい」だったからかもしれない。
あれから十数年、古びた蛇口のように、ちびりちびりとこぼすようになってきた。相手は夫だったり、母だったり。なるべく明るく前向きな意見として頭の中で整理してからこぼすようにしているが、やはり愚痴には違いない。申し訳ないと思う半面、適度なガス抜きはお互いのためとも思う。ちょうど五月の鯉の吹き流しのように、気持ちよくありたいだけなのだ。
2005/4/6 (Wed)
実るほど、、。

年上の女性に誘われてとあるお茶会へ。お茶の作法は見よう見まねでそれなりに緊張もするけれど、軽いお昼も出るらしいと聞いて、ほいほいと。
席が空くのを待つ間や、大寄せなのをいいことに小声でいろいろ質問をする私に、連れていってくれた人は物腰やわらかに答えてくれる。決してがちがちに作法に縛られるのではなく、その場その場の状況に柔軟に対応していく感じがとてもよい。
「こうじゃなきゃだめ」と思うとしんどい。
「これでもええやん」って思うと楽しい。
ただし物事の本質をわかったうえでないと、ただの手抜きになってしまう。お茶にかぎらず何ごとも、ただ年を重ねるだけでも、学ぶことはヤマほどある。
2005/3/23 (Wed)
悩む。

同じ一週間のうちに、いろいろなお誘いがある。ただちに断ろうと思うほど嫌ではなく、ちょっと興味があるけど前日に予定があるとか、お金かかるかなとか、疲れるかな、とか。その時の気分や体調がハイじゃないと、じーっと手を止めて考え込んでしまう。しがらみ、なんかも顔を出す。そういう時は自分に有無を言わせず全部に「行きます」と返事して、あとは野となれ山となれ、なら悩む時間は少なくてすむのだけど。そうもいかず、うだうだと悩んでいる。
逆に、誰かを誘った時は「返事がない」とも思うし、誘う時の手間や勇気を知っているだけにますます悩むんだな。
2005/2/19 (Sat)
にほひ。

頬杖をつく。ついでに自分の手のひらのにほひを嗅ぐ。指先に近いほど食べ物のにほひになり、ふっくらして手首に近いところは、たまにつけるコロンや服に移った防虫剤のにほひがして、それが直接的ではなくて他のもろもろと混ざりあって少し優しくなっているのでもっと嗅ぎたくなる。メリーやプーがクンクンするように鼻先を手首に押しつけると、鼻の頭はひんやりしていて、逆に体温の低い私のからだも少しは温かいのだなあと思う。
たまに人の手のひらに顔を押し付けると、やっぱり食べ物のにほひがしておかしくて、ちょっと幸せな気分になる。
2005/2/12 (Sat)
装う

気の張る職場にいたことがないせいもあって、お化粧をするという習慣がない。下手とか変わり映えしないという事を差し引いても、もう少し気を使ってもいいんじゃないかと我ながら思う。うす暗い場所にある鏡を心の支えにして、間違っても百貨店の化粧品売り場の明るい鏡は見ない。これは顔に限ることではないのだが。
ところで、ご飯は「入れる」とか「盛る」よりも「よそう」という。漢字にすれば「装う」。それを知って以来、おしゃもじを持つたびに思い出すので、ご飯はちゃんと装われている。
では、鏡を見るたびにどんな字を思い浮かべれば、私はちゃんと装うことができるだろうか。
2005/1/21 (Fri)
おとうと。

小さい頃、弟は「おかえり」と言いながら帰ってきた。迎える方が「ただいま」と答えていたかどうかは記憶にない。アルバムの写真を見ても、ほとんどまともに立ったものはなく、いつもどこかヘンなポーズをしていて、たまに「きをつけ」の姿勢をしていると、顔がヘンだったりする。まったくお茶らけた奴だった。
ところがこの間、何年かぶりにゆっくり顔を眺めたら、すっかりおじさん風の苦労人の顔つきになっていて、びっくりした。オーバーではなく胸を打たれる思いがした。あの頃から軽く三十年はたっているのだから当然といえば当然。夫となり父となり仕事をしている顔である。へんてこりんな性格はすっかり子供に受け継がれてしまったのか。それでも、スキあらば人を笑わそうと企んでいるように思えるのは、私だけがいまだに子供じみているからだろうか。
2005/1/12 (Wed)
いつもいい一日。

たとえ年下であっても、もちろん男でも女でも、素敵だなと思える人を見つけると嬉しい。それがテレビの中のスターでも道ですれ違っただけの人でも、見つけた瞬間、その人の魅力の何分の一かは自分のものになった気がする。とても単純で大袈裟だけど生きる励みになる。こんな「つもり」が積もり積もってわたしを作っている。
遠い先の夢などと聞かれても答えられないが、いま目の前にある選択肢なら「こっち」と答えられる。そうやって毎日選び続けてきたから、やっぱり今日という日はいつかみた夢の一日に違いない。
2004/12/26 (Sun)
愛で、継ぐ。

欠けたり、割れたりした器を修復する金継ぎという手法がある。本来なら高価なものや歴史的に価値の高いものに施されるのだろうけど、うちの三千円クラスの古道具やで買ったものも、簡単な金継ぎをすると以前にも増して魅力的になる。そう思っているのは自分だけで、他人が見れば単に欠けている器にしか見えないのかもしれないが。そこがまた良い。誰にでもわかる魅力なんて、きっとおもしろくない。
なのに、人間に対してはどうしてそんな風に寛容になれないのだろう。どこかで命を奪い合っている者のことではない。もっと小さな社会の個人的な話し。たとえばわかりあえるはずの同性に対してさえも、弱点を愛するためにはかなりの年月が必要だ。まだまだ未熟、修行なかばというところ。
2004/12/7 (Tue)
はればれと。

四十年も生きていれば人生バレバレだって思うことがある。ちょっとしたクセや行動、言葉使いに、その時までどんな人生を送ってきたかが表れているような気がして恥じ入る。
でも一方では、他人は自分が思っているほど自分を見ていないことも知っている。中途半端な自意識過剰から生まれる中途半端な親切や愛情。あと二十年もすればそういうものからも自由になれるだろうか。「とっくにやりたい放題」だと誰かの声もするけれど。
2004/12/4 (Sat)
丁寧に話す

ため口が苦手だ。「ため口」という言葉も嫌だ。よく知らない人にため口で話しかけられるとバカにされていると思う。私は心が狭い。狭い心の扉は小さい。すぐ閉じてしまう。
過剰ではなく平らに丁寧に話す人がいい。そうすれば対等なスタートを切ることができる。もともと話すのが得意ではないから、短いセンテンスで話をされると考える余裕がなくて失敗する。考え、考え話していても「ひとこと多い」「ひとこと少ない」のくり返しだ。その失敗が少なかった人にだけ、今もつき合ってもらっているのかもしれない。
2004/11/15 (Mon)
あなたの字

2004年11月現在の今でも、時々手書きの手紙をもらったり出したりする。誰が呼んだか原始メール。前略も草々もなくていい。今、ただ伝えたいこと、書きたいことがあればいい。暇だから、でもいい。字もうまくなくていい。むしろ、ちょっとぐらい下手な方がいい。昔もらった判読が難しいおばあちゃんからの葉書もでっかい字のラブレターも、だからこそあったかい想い出となる。
電子の世界が時に悪意に満ちるのは、自分の手を使って「字」を書いていないからだと思う。心に浮かぶ悪いことも、実際紙に書いてみれば、それはそのまま自分への手紙となる。そんな手紙をもらって嬉しいか、書きたいか。書く自分が許せるか。その書き込み、そのメール。手書きの気持ちで書くことを忘れてはいけない。
2004/11/8 (Mon)
リスタートする女

身重の友人を手伝ってフリーマーケットに参加した。出店していたのは100%女性。女はモノをただ捨てることはできないけれど、処分することはできる。それもバッサリと、自分のものではないものを。男は捨てることも処分することもできない。おそらく家の片隅でほこりをかぶっているものや、その状態に関心がないのだろう。
女は月に1度生まれ変わる。感情のメリハリ(秋の空とも言う)によって別人にもなる。唐突のようだけど、それとこれとは海より深い関係がある。
2004/10/26 (Tue)
知らない人のために。

あらためて宣言しなくても、私は涙もろい。そしてそれは父親ゆずりである。テレビで流れる悲しいニュースや感動的な話題、ふと見れば目が真っ赤で鼻水すすっている。母はといえば深刻な顔つきではあるが、あんなにわかりやすく泣くことはない。お笑い番組を見て笑い過ぎて泣いているのは何度か見かけたが。あれは一種の気持ちの発散手段だ、とても平和な。そっちの方も似ている。今は一緒にテレビを見ることも少ないが、このところの台風や地震のニュースで、かなり疲弊しているに違いない。
それにしても、街に暮らす者のわがままが回り回って自然をこわし、つつましい暮らしを脅かしているように思えて仕方がない。
2004/10/9 (Sat)
名乗りつづけて。

生まれてこのかた数十年、この名前とつき合っている。ネットの世界で遊ぶハンドルネームとは年季が違う。名前に使える漢字が増えて嬉しそうな両親を新聞でみた。そう、普段忘れてしまいがちだけど、名前には親やそのまた親のいろいろな思いが詰まっている。多少、変な形でも、重くても、一生、大切に持ち続ける宝石箱のようなもの。友人の子供が自分と同じ名前だと、少なからず自惚れたりもする。そんなあれこれに本人が気付く前に、名付けた者に命を奪われる。画面に光る名前にはどんな願いが込められていたのかとおもう。
2004/10/4 (Mon)
だれかの分。

良く言えば「足るを知る」、悪く言えば「貧乏性」。洗濯機に出る洗剤表示も料理に使う調味料や化粧クリームでさえ、表示の2割減しか使えない。それでも十分役目は果たしていると思うのだ。買ってきたお肉のパックも使い切らずに残りの2割は明日へ持ち越し。我ながら変な癖。なんかFULLな感じが好きじゃない。いや、疑り深いのか。だれかの悪口は2割減で聞いて、よい話は5割増。精神衛生上はベストだけど。
2004/9/29 (Wed)
ストレッチ。

淡々とヒットを打ち重ねていくイチローが今は何よりの楽しみ。しなやかな身体を見ていると、人間は柔軟でなくてはいけないと思う。身も心も頭も、いろいろな大事に備えて。毎日毎日同じように見えることを続けて、昨日より5ミリ、1センチ先に手が届く。うんうんうなってストレッチ。もはや、起きぬけの伸びで足がつることはない、ネット際のシャトルも余裕で拾うぞ。
目指すぞ、イチロー。
2004/9/23 (Thu)
これから帰る。

大学生にもなって、電話で「今晩なに?」って聞いていたことを思い出した。ちょっと甘えたニュアンスも。母の返事は色々で「ええもん」だったり「おさかな」だったり。具体的な献立というよりは素材が多かったような気がする。それで満足していたかどうかは思い出せないけど、中途半端な幸せ気分は嫌いじゃなかった。いや、晩ごはんを作って待ってくれている人がいるっていうのは、中途半端じゃない幸せです。もちろん。
で、今。聞かれる立場になると「かしわ」とか答えてたりする。
2004/9/10 (Fri)
惜しい!

 無印良品の二重ガーゼのパジャマ。冬あたたかく、夏も通気性が良くて着心地がよい。でも、紳士物のズボンのポケットは不要。干す時にいつも裏返さなきゃなんない。だいたいパジャマについているポケットを実際必要な人がどれだけいるのだろう。安いパジャマほどついているようにも思えて、ますます不思議。
安く丼ものが食べられる店のカレーについている味噌汁。あれも無理矢理だ。お母さんが「今夜はカレー」と決めている時に、お味噌汁も作ることはない。ハズはない。もし一緒に食卓に乗ることがあるなら、それは今朝の残りだ。え、それとも。
2004/9/2 (Thu)
 白黒はっきり。

スポーツ面好きとしては、時々困ることがある。
白星は負けで、黒星が勝ち。勝敗が逆のイメージなのだ。たぶん降参するときの「白旗」が影響している。想像だけど。
高速道路や新幹線、東京ー大阪間のように長いキョリだと上り下りも納得するが、短いキョリだと自信がない。例も浮かばないほどだ。地図は必ず上が北、なんてのも理解に苦しむ。「そこを北に曲がって」と言われてもなあ。
2004/8/20 (Fri)
ココロガ、ウゴク。

前に観たことを忘れて借りたビデオで泣き、子連れ狼の「ちゃん!」に泣き、「誰も知らない」の土だらけで震えている手に泣き、「ラストプレゼント」の父と娘に泣いた。柔道の最後の1秒に決まった「いっぽん!」に泣き、体操団体のアナウンサーに泣き、遠くから野菜を送ってくれる心づかいにほろりとする。悲しくて、哀しくて、嬉しくて、感動して、なんかわからなくて泣いた。この夏は汗と涙にまみれている。
2004/7/14 (Wed)
旨く、上手く、なれ。

 ミスチルを聴きながら料理をする。イエモンの時や宇多田の時もある。恥ずかしながら、ノリノリしている方が出来がよい。料理は「いきおい」だと、よく思う。途中で間ができるとまずくなる。
自分自身は恐ろしく音痴なのに、CDを聴いたり、歌番組を見たりするのが好きだ。わざとらしいのは嫌いだけど、表現している姿は見ていて気持ちがいい。人を気持ちよくさせる能力というものは素晴らしい。
2004/6/17 (Thu)
生きているモノと。

なにごとも、ちょっと足りないぐらいがちょうどいい。食べ残しのある食卓はかなしくて、着ないのに吊るされたままの服や履かれることのない靴は美しくない。
新しすぎるのも気恥ずかしい。カタログ写真のようなカーテン。どこかで見かけた五客揃いのコーヒーカップ。カバーだらけのトイレ。美しさの基準がその人にないものは、ただのモノでしかない。
ああ、でも。
風通しよくシンプルに暮らすことはなんて難しい。
2004/4/27 (Tue)
こんな日もある。

 申し訳ないくらいに、ひまだ。こんなに時間があるのはわが人生始まって以来かもしれない。ひま、しかも春。ほこりも見えにくい雨の日は掃除も洗濯もできない。仕方ないので本棚につもったDMやとりあえずとっておいた料理ページなどを片付けたり、電気をつけるのも憚られるので明るい窓際で少し繕いものをしても、まだ時間がある。観葉植物の茶色くなった葉を落としたり、鉢の置き場所を変えてみたり、横っちょに生えてきたカタバミををいじってるうちに種が爆ぜて、それが予想しないほどの勢いだったので「わあっ」と思わず声が出るほどびっくりしたり。ひとりで「わあっ」と言った自分に笑ったり。たわいなく、頼りなく過ぎていく今日一日のことを書いてみたりしている。
2004/4/17 (Sat)
なまあたたかく、人は。

つい最近、ほんとに久しぶりに人と握手をする機会があった。めったに会えない女性とのお別れの握手。そして休日の遊びだけどバトミントンの試合の後でメンバーと。どちらも自然に手が出て、当たり前のあたたかさと柔らかさにちょっとどきどきした。
おとなになると、そう簡単には人に触れることができなくなる。子供同士やおとなと子供の関係にはない「意味」を持ってしまいそうで。
握手はいいな。「生きてますね」「はい、生きてますよ」って感じで。その瞬間はとても平和な心持ちになる。
2004/4/8 (Thu)
ほらね。

長年の習慣を肯定されるような話を聞くと「我が意を得たり」と小さくガッツポーズしたくなる。たとえば、風邪をひいている時にもお風呂に入ること。最近になって、湿度に弱いウイルスをやっつけるのに有効という説あり。
たとえば、枕をせずに寝ること。肩凝り症ゆえの苦肉の策ではあるけれど、ある人に言わせれば「首にシワができるから女優は枕をしてはいけない」んだとか。このさい女優であるなしは関係ない。単純にうれしいのである。もうひとつ、真夏にアイスノンをして寝ると冷房要らず。これも誰か言ってくれないかな。
2004/3/30 (Tue)
たてよこ気分。

たて書きとヨコ書き。漢字とカナかな。コドモはずるい。こどもは幼稚。子供は他人の子。たて書きの字は賢そう。ヨコ書きの字は甘えん坊。「立て板に水」のごとくしゃべったり書いたりは立っていなきゃできない。ここにこうして寝ているものも、ひょいと起こして「たて」にしたい気分。
2004/3/12 (Fri)
もうちょっと。

「自分の評価は他人がするもの。自分でするものではない。」そう言われて思いとどまった人がいる。自分に対してダメ出しをするのは一見、客観的でストイックに見えるかもしれないが、もしかしたら最後のひとふんばりをする前にあきらめてしまっているのかもしれない。年令を重ねれば、自然とわかったつもりになることは多い。「こんなもん」と悟ってしまうことも。そこからのもうひとがんばりができるかどうか、がんばりたいものがあるかどうかが大切な気がする。
2004/2/28 (Sat)
やってしまう。

特に躾けられたり、教えられたりしたわけでもないのに、気付けば母と同じことをしている。見るとはなしに見ていた生活のあれこれ。今でも思い出すのはお風呂に入った時の母が父のワイシャツの襟元をこすっている姿だ。湯舟につかりながら見ていた時は、子供心にも所帯じみた姿のように思ったけれど。そのとき母が、何を考え、何を考えなかったかということも少しずつ追体験している。
そんな母と、最近になってときどき手紙を交わすようになった。会って話すとキツイことを言う母も、手紙では悪筆の聖母マリアといった風。母娘であっても、血のつながりがあっても、お互いの本当のところはわからない。ただ「まあ、わからないでもない」と思えることが少しづつ増えていくぐらいだ。
2004/1/21 (Wed)
どーでもいい、はずはない。

口に出してしまうと現実になりそうで恐いから、極力悪い気につながるようなことは言わないようにしている。たとえ心の中で思っていることでも。口に出して、横にいる人が聞いてしまうと、それは決していい影響を与えない。自分が考えることぐらいは、大抵の人も考えている。あらためて言う必要はない。
投げやりな言葉もいけない。言った途端につまらない人生になる。ほんとうに大事な人と思うなら、一緒に不幸にならなくていいのだ。人はお互いを幸せにするためだけに一緒にいる。
2003/12/17 (Wed)
考えない。

まさに寝てもさめても、頭が勝手に回っていろいろなことを考えだして止まらない時がある。そういう時に考えることはたいていは悪いことで、刻々と眉間のシワが増えていくような気さえする。肩もこる。
そんな時はラジオをつける。CDを聴くのもいい。何かをしながら耳がちょっとだけ横を向いて、脳みそが「ほっ」とするのがわかる。テレビは画面をうつろに見ているだけで、やっぱり頭は別のことを考えしまうから役に立たない。
いちばんいいのは、気持ちのよい空気を吸って散歩すること。地を踏みしめて歩いていれば、前に進むことぐらいはできる。考えてもはじまらない、と足が思う。
2003/12/15 (Mon)
うまい。

うちには、きりっと冬らしくなると登場する定番鍋メニューがある。材料は山盛りの水菜と鴨肉。シンプル。鰹だし(いりこ出汁でも)に塩と醤油だけで味付けして火にかけ、脂の多そうな鴨肉を少し泳がせて、ぎらっとさせる。そこへ鴨肉を足して適当に切った水菜をたっぷり。蓋をして水菜がしんなりしたらおつゆと共に食す。もちろん鴨も食べるけど、メインは水菜。実家の家庭菜園でできた正真正銘無農薬、あばれんぼうの水菜を使って何とも青臭い味なれど最高においしい。おかげで今日は身も心も軽いわけです。
2003/11/25 (Tue)
いっしょに。

ある日の4コマ漫画。小学校の遠足の注意書きにテレビを持ってきてはいけない、猫を連れてきてはいけない、弟を連れてきてはいけないとある。「たいていのものはええっちゅうことやな」で落ちる話だけど。どこかに出かけた時に、メリーやプーがここにいたらどんな感じだろうな、って思うことがある。その延長線上に甥っこなんかもいたりする。鴨川のほとりを歩いている時や、御所の日溜まりのベンチに座っている時。喜ぶ顔が見たいというより、きっと、驚く顔が見たい気持ちの方が強い。はじめて、あれ、を見た時に横にいた人、になりたいんだな。
2003/11/11 (Tue)
バタコ

小さい頃、隣にお金持ちのいとこが住んでいた。いとこの家には大きなピアノがあって、髪の長い女性教師が教えに来ていた。なぜだか、私も一緒に習っていたのだが、まったく身に付かず、少々ヒステリックな先生も苦手だった。
習っていたのは、かなり短い期間だったと思うが、休憩時間に出された枇杷の曖昧な色と味を時々思い出す。それと憂鬱そうな私を見兼ねて、父がバタコの後ろに乗せて連れ出してくれたことも。あのとき、運転していた父は、今の私よりも若くて、そしてどんなことを考えていたのだろう。
2003/10/30 (Thu)
ほんとうのつながり

知り合いのハタチの男の子が、最近携帯電話をやめたと聞いた。携帯を持っているばかりに、友だちは約束に平気で遅れてくるし、しょっちゅうかかってくるくだらない電話やメールが嫌になった、というのが理由らしい。小さい頃から、地味な煮物料理が好きだったこと…は関係ないか。周囲のおとなに気を使わせない子供ぶりを知っていただけに、それも自然のなりゆきに思える。
一度持ってしまった携帯電話を手放すのは、強い意志がないと難しい。それから自信。持っていなくても本当の友だちを失わないという強い確信。
携帯ざかりとも思えるハタチの選択は、その辺の行儀の悪いオトナよりはるかに潔い。
2003/10/27 (Mon)
おとなのお辞儀

上手にお辞儀をすることができない。
ここ何年も、気をつけようと思っているにもかかわらず、その場になると、歩きながらのへっぴり腰になってしまう。これは、なんだかおとなとして情けない。
知人に、お手本ともいうべき、きちんとその場で立ち止まってお辞儀をする人がいる。聞けば、お茶の稽古を長くしているという。お茶に限らず、なにがしかの習い事というものをしていれば、先生なり師匠なりへの挨拶に始まり、挨拶に終わる。それが身につくだけでもお稽古ごとの甲斐があると思う。
なかでもお茶はお客を迎えてもてなすためのもので、常に大切な人が相手だから、心の持ち方ひとつが所作にあらわれる。だから、お辞儀ひとつを見ても、込められた思いが違うのだろう。
ならば、わざわざ習わなくても我が心を磨けばよいかと思うが、それがなかなか難しい。いや、その方が難しい。
たかがあいさつ、されどあいさつ。
一瞬、時が止まったような、きれいで有無を言わせぬお辞儀を身につけたいものである。