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「たまよみ」

2008/3/26 (Wed)
老いても。

介護に関する記事で見つけた「心が動けば体が動く」。
たしかに、年をとっても好奇心に満ちたひとは身体も元気だ。何に対しても「どうでもいい」と思ってしまえば身体だってどうでもよくなる。そんな風に老いて嘆くひとの心をどうしたら動かしてあげることができるのだろう。本当はわかっているクセに、してあげることができない。できるのにしない自分と、きっと自分がしてもだめだろうというあきらめと、どちらにしても逃げていることには違いない。そればかりか、ひきずられてこちらの心も動けぬようになるときがある。楽しく老いるお手本を見せてくれるのが最高の子供孝行だと、親不孝な私が思う。
2008/3/25 (Tue)
失敗も成功のうち

きものと料理は似ている。どちらも素材の無数の組合せによってできあがり、限りない可能性がある。
きものは+帯+帯揚げ+帯締め、さらには長じゅばんや履物に至るまで、凝ろうと思えばキリがない。ありがたいことに、いろいろな人からいろいろといただいているうちに、一つ一つは百%の好みではなくても、組み合わせることで全体的な雰囲気を自分の好みにするという楽しみを見つけた。
料理も、使う素材が同じでも昨日と今日は違うひと皿になり、作る人間が変われば違う一品になる。どちらにも失敗はつきものだけど、成功したときの喜びが大きいのも同じ。それが誰の目にも「成功」と写るかどうかはわからないけれど、一種の表現と考えればなんでもありの自由な世界に遊ぶことができる。
2008/3/13 (Thu)
数える。

89448。
アメリカ大統領選挙やぐずぐず国会の陰でイラクで死んだ(殺された)民間人は9万人近くに達している。辺見庸氏の本を読むまではまったく忘れていた事実。そうだイラクは続いている。日本はどうしたんだっけ、給油活動は停止したままだったか。それすらあやふや。この瞬間恥じることはあっても、なにも変えることなくきょうが終わる。(数字は「イラク・ボディ・カウント」というサイトより)
2008/3/12 (Wed)
原点は小学生。

何をしたらほめられて、何をしたら叱られたか。人としての誇りもわんぱく魂も、もろもろに関する最初の記憶は小学生時代にある。おとなになれば、ひとに怒られることは滅多になくて、善悪の判断は自分でするものとなる。その基準ができるのが、まだランドセルを背負っていたあの頃だったと今になって思う。だから、おおざっぱに言えば、人間としての芯の部分はあの頃と変わっていないのかも。
M先生にほめられて、ほめられるのってやる気でるなあと気づいた私は、相変わらず他愛のないことをほめられては喜んでしまう単純な性格。一方、目の前のコヤツはほめられるのが嫌いな素振り。でもその鼻のひくっとするのはやっぱり嬉しい証拠じゃないのか。素直じゃない性格はきっと小学校時代からに違いない。
2008/3/3 (Mon)
生きてはいても。

動物の心が読める女性が、飼い主一家になつかない犬のところへやってくるという番組をたまたま観てしまい、たまたまひとりだったのでだらだらと泣く。子犬のときの飼い主に虐待を受けていたのが原因で、犬とは思えない怯えたような目がとても哀しかった。
小鳥も猫も犬もその記憶は手のひらが覚えているあたたかさで、それは思い出すだけでも微笑んでしまうような単純な幸福感を与えてくれる。死んでしまった人間は、親戚のおっちゃんもおばあちゃんも氷とはまた別の冷たさで、その冷たさゆえに死んでしまったことを納得できた気がする。そんな表面的な生と死の温度差だけでなく、心が固く冷たくなってしまったら、そのかたまりをほぐすのは難しい。ただただ無条件に愛してあげることで救われるなら、それは人間の場合もっとも難しい。
2008/2/27 (Wed)
術をもつ。

ラオスから帰ってきた人の話を聞く。いい意味でハードで野趣にとんだ旅だったらしく、現地で調達した道具でバーベキューをしたりテントで寝たりしたと聞いて、その後のバーベキューセットが気になった私。でもそれは使用後は自然にもどるようなもの(たぶん木とか葉っぱとか)だったようで、日本の川辺のキャンプ後を想像した自分が恥ずかしくなる。なければなんとかなる生活術があると思うのは便利な日本のレベルであって、かの地に行けばちゃんちゃらおかしーレベルなんだな。
2008/2/18 (Mon)
そろって前進。

気が多いのか、落ち着きがないのか、もしかすると職住一致のサガなのか、あれもこれもちょっとずつ並行して家事や仕事をするクセがある。パソコンをたち上げている間に洗濯物を干したり、お湯を沸かしている間にほうきで掃いたり、パソコン作業途中にお米をかしたり、出汁をとっている間にメールを1本打ったり、挙げてみればたいしたことはしてなくて、ただ「はい今日はここまで」という時に、なんとなくみんな同じようにすすんでいるのが好ましい。でもその並行した感じはどうも机の上に表れているらしく、指摘されれば確かにとっ散らかった頭の中とうりふたつ。なんか永久に片付けられない気もするのだな。
2008/2/12 (Tue)
リピーター

「一枚の絵を心から欲しいと思う以上にその絵について完全な批評はあるだろうか」(洲之内徹)と言ったひとがいる。絵に限らず、また来たいと思う店、また食べたい料理、また話したい人、それがすべてを物語る。
例えば仕事にしても、同じ相手から二度目の依頼があることはなによりの評価。そのまた「つぎ」があるように、努力を続けるための力もわいてくるというもの。
そして結婚は究極のリピーター、あるいはファン。認め合うことの連続がその関係性の継続と力を生む(はずだ)。
2008/2/6 (Wed)
容量と要領

ちらしを見て安くなっている野菜や玉子を買いに走ったりができない。そもそも大家族でもないから消費量はしれてるし、安いからといって買い込んだものに縛られるのが何よりつらい。その日食べたいものを食べられるだけ。節約した1円の積み重ねも、ちょっとした遊びごころでチャラになるなら積み重ねないほうを選んでしまう。家計簿は頭のなかのどんぶり勘定。冷蔵庫の中身も覚えられるだけがいい。
2008/1/30 (Wed)
つまるところ、

年をとるということは、自分という人間を要約していく感じだ。
本当に好きなこと、やりたいこと、食べたいもの、人とのつきあい方、自分の性格。なあんだ、これでいいんだ、こんな人間なんだって気づくことなのかもしれない。これでいいんだって思うのも自分だけなんだけど。
でね、今のところのわたしって、これでええんかな。
「あのとき、ああしていればよかった」なんて思ったこともなかったけれど、いつかどこかの角を曲がったら「後悔君」が大挙して待ち構えていたらどうしよう。お構いなしに蹴散らして、歩いていく力は残っているのかな。
2008/1/25 (Fri)
料理のじかん

おそらく初めて買った料理本は「小林カツ代のおかず大集合」だろうか。たぶん誰か(だれか!?)に手料理を食べさせるときになってあせって買ってみたんだろうけど、その割にあまり使った形跡がない。結局、初めて食べてもらった料理が何だったかも記憶にない。あれかも、、というのはあるけれど、、。
その後はもっぱら簡単そうな新聞の切り抜きばかりが増えて、その中でも作ったことがないものが山ほどある。それでもとりあえず毎日の献立はできていき、自分でも飽きずに食べている。買ってくるものや外で食べるものは飽きるけど、たとえうどん一杯でも、うちで作ったものはそれなりにおいしい。たぶん安さで納得しているのだろうな。でも時々はマンネリか、と思わないでもなく。ふと思い出して冒頭の一冊を開いてみたら、おや新鮮。あの頃、諸事情によりパスしていたメニューの全貌がよく見える。ほお、これがキャリアというものか、なんてね。それでもってレパートリーが増えるかどうかはまた別のおはなし。
2008/1/22 (Tue)
眼鏡

ちょっと前に眼鏡男子が話題になっていたけれど、それよりもずっとはるか昔、「私の」眼鏡男子ブームは中学生のときだった。しかも銀ぶち限定。よく考えてみると当事の普及版が銀ぶちだったのかもしれない。とにかく、銀ぶちの眼鏡をかけているだけでなにやら素敵に見えて、話したこともない先輩を見かけただけでどきどきして楽しかった。小学校時代は自分自身も眼鏡をかけたくて、何かのはずみで0.7の再検査になったとき一瞬喜んだものの結局疲れ目ぐらいで何ごともなく今に至る。眼鏡をかけている女の子がコンタクトに変えたら綺麗になってモテるというCMパターンがあるが、人生初は老眼鏡かという年頃になって、逆にそれが色っぽいとか儚げだとか、そんな風潮にならないものかと妄想している。
2008/1/16 (Wed)
ばっかり。

「ばっかり」はしんどい。掃除ばっかり、ご飯を作るばっかり、本を読むばっかり、遊んでばっかり、怒ってばっかり、パソコンばっかり。まんべんなく栄養をとるように、バランスよく一日がなりたてば気持ちいい。
たまには食べたことのないものを食べてみて、たとえまずくても笑いばなしがひとつ増えるぐらいの気持ちでやってみる人でいたいとも思う。
でも一方では「ばっかり」にも憧れる。たとえばイチロー君、玉三郎さん、庖丁をつくる職人さん。頭のなかはそればっかりっていうのも、かなりいい。とまあ、ぶつぶつ言いながら何ものにもなれず(ならず)に年をくっていく。
2008/1/14 (Mon)


たとえ閉じていても、窓があるひとには希望がある。
このところの事件には、窓がなく、よどんだ空気の部屋が見える。八方ふさがりでどうしようもなくなったとき、窓を通して入る太陽の光がどれだけ温かいだろう。光は他人の声だったり、誰かが書いた書物だったり、もしかしたら流行りの歌かもしれない。目を耳を開いて、ちゃんと見て聞いてみる。考えることはできなくても自分以外のほかの何かを感じることができたなら。
2008/1/10 (Thu)
欲張らずに。

神様と仏さま。手を合わせる回数はどちらが多いだろう。
千の風ではないけれど、森羅万象あらゆるところに神も仏もちゃんといる。いて欲しい。そう思っておけば、いざという時少しでも哀しまずにすむような気がする予防線。でも、それって全部見られているということでもあるわけで、いいことも悪いことも、肩のななめ後ろのほうの視線がきびしい。
常日頃、調子よくお願いをしているものだから、せめて実際に手を合わせるときは「いつもありがとう」の感謝だけを。
2008/1/6 (Sun)
散歩

散歩してくれる犬がいないので、人間のオトコを誘って散歩する。人間のズルをして行きは電車に乗り夕陽丘のお寺に行く。お詣りをして坂を下って街に出て、しゅうまいを食べる。バーゲンをのぞいてオンナは小さなものを、オトコはこっそりお菓子を買って家路につく。今年もこんな感じにぶらぶら歩き散らしていこう。
2007/12/28 (Fri)
今年みたもの、よんだもの。

年末に今年の私的ベストを送ってくれるひとがいて、お返しにこちらも記憶を探る。といっても全体量が少ないので片寄り偏見忘却あしからず。
ドラマ/「セクシーボイス&ロボ」「ホタルノヒカリ」「ハゲタカ」「帰ってきた時効警察」まだ放送中の「ちりとてちん」「SP」
DVD/「花よりもなお」「ミュンヘン」「インサイドマン」「好きだ、」
映画/「天然コケッコー」「パッチギ・ラブ&ピース」「バベル」「ボーン・アルチメイタム」
本/「さくら」(西加奈子)「ニシノユキヒコの恋と冒険」(川上弘美)「対岸の彼女」(角田光代)「うつつを抜かして」・「薔薇の雨」(田辺聖子)読書中の「茶と美」(柳宗悦)
ひきつけられたもの/「花ざかりの君たちへ」の生田斗真、フィギュアスケート高橋大輔の演技
なんか大事なものを忘れている感はありありだけど、とりあえず。
2007/12/27 (Thu)
年賀状

今年「四捨五入して50です」と年賀状に書いてきた友人が、知らない間に病気になって、あっという間の夏に死んでしまった。あっけなく日々は過ぎて、人は生きて死んでゆく。今年、二度の手術をはた目には軽快に乗りこえた父は元気で、若いとか若くないとかじゃない運命というどうしようもないものの下に、みんな平等というのはこういうことかと思う。
2007/12/21 (Fri)
プラスマイナスありがとう。

修理に出さずに相方が直した掃除機、ありもので作ったお昼のスパゲッティ、百貨店カードで割引になったお歳暮のチョコレート。しめて7200円といったところか。稼いだんじゃないけど、今日の得。
得もしつつ、できれば徳のあるひとになりたいと願うのは、やっぱり欲張りの損得勘定。収支とんとんなら文句なし。
2007/12/20 (Thu)
いちゃ・もん

新聞の「責任転嫁」という文字につっかかる。転嫁ってなに。他人のせいにすることのほかに、婦人が再婚することとも書いてあるけど、なんか嫌な漢字。この年になって気づくのも遅いけど、なんで嫁なんだ。もしかして他人の象徴が嫁なわけ?ははーん、そういうことか、、とひとり毒づく師走の夜。ついでに「いちゃもん」も引いてみよ。
2007/12/20 (Thu)
髪を切る。

切りたての髪で道を歩いていると、やけに視線を感じる。しかも女性の。「知り合い?」「誰かに似ているのか?」などと見つめ返しても心あたりはない。たぶん、にやにやふわふわ歩いているへんな女だからに違いない。なんで髪を切るとうれしいんだろ。ひょっとして違うひとの手でシャンプーしてもらってへらへらのツボを刺激されたのか。
2007/12/17 (Mon)
幸せと言えること。

最近、ルックスの良さで人気の芸人さんが「家が貧乏だとか、顔がぶさいくだとか、コンプレックスがないのがコンプレックスやった。だから笑わせる力で認めさせたかった」と言うのに、芸人でもない私はかなり共感した。生意気にも。そのひとの芸も決して他人の心を傷つけたり、文字どおりどついたりしないから好きだったせいもある。
親が離婚もせず、毎日あたたかいご飯を作ってくれて、大学まで行かせてもらって。そのうえ気恥ずかしくて言えないほどの愛情をもらって今の私がいる。なんて、素直に思えるのは結婚して別に暮らして長いからだ。絵に描いたような普通の幸せもんは少女漫画の主人公にもなれない、そんな悩みとはいえない贅沢な悩みが気難しい子供をつくっていた。それでも「それだけ」と言われるのが嫌で勉強もしたし、優等生的ふるまいを心がけていたような気もする。その時はわからなかったけど、きっとその本質を見抜いていた人はいただろうな。そう思うと恥ずかしくていやになる。
でも最近思うのだ。やっぱり上には上がいる。お金持ちだとか成功してるとかじゃなく、人として魂が光っているひとがいる。そのことがわかっただけでも安心して私は普通でいられる。普通のための努力は恥ずかしくない。
2007/12/13 (Thu)
おもしろキャンディー

身体的瞬発力はまったくないけれど、たまに瞬間思考力がアップするときがある。他人にはおもしろくもないそのひらめきに「へへっ」と自分だけほくそ笑む。致命的なのは持続力がないこと。思いついたことを実行するまで楽しさが持たない。寝がけに思いついて朝起きたら忘れていることも多い。だからサンタさん、今年は持続力アップのキャンディーをください。
2007/12/11 (Tue)
使うことのよろこび

何年も前のどこかの工房で、名もない職人が飄々と筆を走らせたような染め付けのお皿を買う一方で、作家として個展を開くひとの器を買うこともある。どちらにしても使うことが基本にあるから、焼き魚をのせたり、青菜のお浸しを盛ることに抵抗がなく、しかも嫌みのない「軽さ」があるものがいい。食卓にのるたび、手にとるたび、肩の力が抜けた表現に「ふっ」と笑ったり、塗りならば一段と艶っぽくなったことを愛でている。
そのものとの出会いに感謝して、そしてそれを選んだわれらを自画自賛。なんともめでたい日々である。
2007/12/10 (Mon)
忘れない

寝つけぬ夜に、知人夫婦にまつわる「お風呂の『妻』」と「短いおいたち」の話を思い出し暗闇でひとり笑い泣き。こんなに可笑し味のあるエピソードがあると、いろいろなピンチをふたりで乗り越えられるんじゃないかと思い、たぶんうちにもあったんじゃないかと思い出そうとするけれど、そんなに都合よく思い出せるはずもない。でも泣いて笑って許して今に至ることは間違いない気もする、そんな寒くてあたたかい夜のこと。
2007/12/8 (Sat)
ただ看ている。

ツレが激しく胃腸をこわした。看病らしい看病はしないけど、おとなしく寝てる横でちょっとだけ気を使いながら一日を過ごすのは嫌いじゃない。静かだし。これが、復活の兆しが出てくるとあれこれ言い出してやっかい。治るならいっぺんに、すっきりと。子供の頃、おとなしく寝てなさい、って言われるのが最高の喜びだった私と、おそらく正反対のツレ。おとなになって寝込むほどの病気にもならず、本当はたまには看病されてみたい薄情者のかげぐちと聞き流して。
2007/12/8 (Sat)
愛すべき

思うに「大阪のオバちゃん」はオットより守りたい子供のためにオバちゃんになる。子供>自分>オット。
子供を守るためには、おんなっぽさよりもたくましさ。自分の子供にちょっとでも有利な人生を歩ませてあげたいから、前へ前へ出る。それが時には、当の子供からうとましがられたりする。めげるなオバちゃん。子供もいつかはその愛情の深さに気づくときがくる。きっとくる。そのときまで、前へ前へ笑いとともに前進あるのみ。
2007/12/5 (Wed)
米を炊く。

ハンズメッセで買った桐の米びつに入ったお米を計量カップで計ってかして(洗って)、圧力鍋にあけ、別の計量カップで水を入れて炊きあげる。一合、二合と出てくる米びつではないので、その時の気分でカップに一杯とあと7ミリだったり、2.5センチだったりとかなりアバウトである。かしてからすぐには炊かないので、そのアバウト加減を水を入れるときまで覚えておかなきゃいけない。しかも違うカップなので目盛りではなく、深さで記憶するのは間違っている、気がする。いや大丈夫か?どっちだ。
火にかけておもりが回りだしたら火を弱めて、その火加減も勘なので、むっちり炊きあがった時は天才だけど、べちょっとしたりやせたままだったりすると哀しい気分になる。いい加減がいちばん難しい。
2007/12/3 (Mon)
秘策

うちのトイレには換気扇と電気の2つのスイッチがある。窓のないマンションのトイレゆえ、誰も入っていない時も換気扇だけはつけていた。というのは私だけの思惑で、日に数度は換気扇は消えているのに電気だけがついている状態に出くわし「ん、もう」とつぶやくのが常で。長年そうやってきたけれど、最近になってハタとひらめいた。常時換気扇オンをやめにして、出たら両方オフ。たったそれだけで、電気のつけっぱなしがゼロになった。やれやれ、どうにもどうでもいい話。だけどノーベル平和賞でも受賞したような気分。
2007/11/29 (Thu)
くじらベーコン

すべてのとは言えないが、世の中のお父さんというのは妙なものを買ってくる。父しかり、義父しかり。オットは、父ではないが男なのでしかり。実害の及ばないところでみてるぶんには(あきれて笑えるという点で)愛すべき存在にも思えなくもないが、ひとこと言ってやりたいという気持ちもわかる。
でも考えてみれば、普段は目の前に出されたものを黙って食べないといけなくて、それなりに食に対するうっぷんはたまっているに違いない。だからたまにいつもは食べさせてもらえないもの(=ツレの女にとって妙なもので大概は身体に悪そうなもの)を買ってくる、嬉々として。いい年をしたおとななんだけど、口ごたえしている姿は男子小学生と変わらない。
2007/11/28 (Wed)


3本の足が生えた着物の女のひとを描いた絵がある。おかっぱの頭からは木が伸びていて言葉で書くとヘンだけど、女の強さとほんわかとした自然体が表れているよう。「女のひとの足は2本じゃないから」という描いたひとの説明にも妙に納得。
1本足は不安定で、2本足は一見しっかりと立ったり歩いたり。でも、たまには怪我をしたり、疲れて歩けなくなるときもあるかもしれない。そんな時の3本目の足。仕事かもしれないし、友達だったり、パートナーだったり、趣味だったり。曖昧なものだけどちょっと頼りになる足があると、またゆっくりと「別の」方向へ歩き出せるのかもしれない。
2007/11/27 (Tue)
聞く、聴く、話す。

自分の声が本当はどんなのかを知っている人は少ない。いや、いない?自分がしゃべっている時に聞く声は頭や鼻や喉やいろいろなところに響いたり、あるいはくぐもったりして聞こえるから、目の前にいる人に聞こえている声ではないはず。昔、カセットテープに録音して聞いてみたことがあったけれど、それはとてもヘンな声で認めたくないのが半分、もう半分は機械の特質もあるからやっぱり違う。
「聞く」と「聴く」の差さえ曖昧だけど、「聴く」には積極的にきいていたい音がある。
昼間によく聴く女性DJの声はとても耳障りがよく、適度に色気もあって心地いい。ひとりで話していてうまい人は多いだろうけど、彼女はゲストと話している時にもやわらかく無理のない会話ができる。それは多分、目の前のひとに興味を持ってちゃんと話を聴いているからだ。声しかないラジオではその差は大きい。魅力的な声が魅力的な会話を生む。
せっかちな私の場合、段取りを考えて気もそぞろなときはいっそ話さないほうが身のためか。
2007/11/26 (Mon)
カバーする(体験する)。

最近カバーアルバムが流行りらしい。男性歌手が女性の歌ばかりを歌ったり、亡くなった作詞家の曲をいろいろな人が歌ったり。以前に聴いた陽水トリビュートアルバムは一曲ずつ別の歌手が歌ったもので、その意外な組合せに感心したり、笑ったり。清志郎さんが歌う「少年時代」なんて最高の脱力感だった。もともと個性の強い人がハマると曲にも歌い手にも新しい魅力を発見できる。
残念なのは、シンガーソングライターとして活動しているひとが出す丸ごと一枚カバー曲集。素直な歌い方の人ならそれなりの楽しみも見つけられるけど、個性を最大限に発揮できるのは、やはり自分で作った曲なのではないかと思う人もいる。向き不向きがあるのだ。
でも、煮つまったときにひとつの解決策としてほかの才能に触れるというのは何となくわかる。いや、その歌手が煮つまっているかどうかは想像するだけだが。ファンなだけに、そう納得して、次に期待している。
2007/11/22 (Thu)
祖国

1972年ミュンヘンオリンピックに出場していたイスラエル選手達が殺された事件に基づいて製作された「ミュンヘン」(05/S.スピルバーグ監督)を観る。実行犯であったパキスタンゲリラを報復として次々と殺していく5人。初めは祖国への愛で高揚していた彼らが精神的に追い詰められ冷徹になっていく姿がつらい。目の前の人間を殺してもすぐにその役割を果たす人間が現れ、本当に殺すべき人間を殺しているのかさえ確信が持てなくなっていく。少なくても民族間の争いが命を脅かすことのない日本にいて、どれだけ本質を感じているのかはわからないけれど、たとえば身近な人間を強引に奪われる悲しみを想像することはできる。画一的なニュースのかげで今もどこかの争いは続き、誰かが泣いている。
2007/11/21 (Wed)
待てない。

いまどき一週間はすぐ、かもしれない。でも、ぎゅっと詰めたら今週の回だけで終わるだろうにーと「つづく」ドラマに毒づく夜。味方がひとり、犯人に捕まっているというのに解決を持ち越すなんてあり得ないとぷんぷんしてたら3回目に続いてやんの。あー、おもしろいだけに、くやしい。
2007/11/20 (Tue)
月はあそこに。

ほんの数日前には高層マンションの陰で見えなかった月が、今は頭上高く見つけやすいところにいる。さすがにそこまではビルも届かないという高さ。冬の月が高いなんて、ちゃんと考えたこともなく、太陽の黄道に対して月の通り道を白道ということもさっきまで知らなかった。
田舎にいた子供の頃には、こんなに月を眺めることも、どこに出ているかを気にすることもなかったのは、ことさらさがさなくてもすぐそこにあったから。あるはずのものが見えないと不安になる。ひょっとすると月がなくなっても気づかぬ人間になってしまう不安もすこし。月が迷子になるはずもなく「迷うのはおまえのほうやろ」ってつっこまれそうなのに。
2007/11/19 (Mon)
潔く死ぬよりも、潔く生きること。

「花よりもなお」を観る。敵討ちも武士の矜持も正月の餅には替えられない。傾いた長屋に住んでいても、膝寄せあって食べるものがあることの有り難さ。事情も心情も筒抜け丸見えで遠慮のなさと思いやりが同居する毎日は、役者が揃えばたいがいのことは笑い飛ばしていけそうな楽しい気持ちにしてくれる。
2007/11/17 (Sat)
見たいもの見せたいもの。

「グッドナイト&グッドラック」を観る。50年代アメリカ、言葉だけで不正義と向き合うテレビ番組のメインキャスターとスタッフを描いた少し短い作品。妙なテロップも下手な編集もなく、シンプルに伝えたいことだけを伝える。それしかできなかった時代といえばそれまでだけど、今となっては、それが一番むずかしい。あちら側はいつもわがままな視聴者のせいにするけれど、結局はスポンサーを納得させる視聴率が目標。でも垣間見える良心にこそ私たちは敏感なのだ。
2007/11/16 (Fri)
小粒嗜好

「小さな記事ほど新しい。大きくなる頃には、広く一般に知られた事柄だから」とむかし教わったことがある。だから新聞の切り抜きをしているときも、ことさら小さな記事に先に目がいく。新鮮な野菜を見極めるように。
新聞広告も全面のものは全体が見渡せなくて、ただお金がかかっているなとしか思えない。隅っこの小さな四角い広告のお茶目でやんちゃな感じにひかれる。情報量もそれぐらいがちょうどいい。
2007/11/15 (Thu)
冬仕度

私にしてははやばやと来年の手帳と年賀切手を購入し、太陽と雨にさらされがちなフローリングにワックスを塗り、乾燥肌でかゆい足にベビーオイルを塗る。そうこうしてると日暮れが早くて、時計も見ずに夕食の仕度を始めたら1時間も早くて、冬はなんだかおばあちゃんになっていくみたい。
2007/11/14 (Wed)
手書きメール

「手紙を書こう」というテーマの古い雑誌を読んでいたら、手紙を書く秘訣のひとつに「いい相手を見つけること」とあった。確かに。
拝啓、で始まるようなかた苦しい手紙ではなく、横書きタテ書き入り混じりの急ぎではないけれどなんとなく伝えたいことの羅列は手書きがいのち。コピー用紙の裏に走り書きしてファックス送信の思い立ったが吉日吉時。そしてそんなものでも喜んで、同じ温度で受け取ってくれるひとがいる。
2007/11/13 (Tue)
お互い様

苦手なひとというのが、たまにいる。嫌いというのとは違う、断じて、おそらく。かなり近いのかもしれないけど違う、と思いたい。つき合わないわけにはいかないのだったら、嫌いだと思うのはつらい。
あまり他人のことをうらやましいと思ったことがないくせに「ちょっとうらやましいです」という感じを出したほうがつきあいやすい相手。でもそれは本当はこっちの誤解かもしれなくて、もっとフラットに素直に付き合えばお互いの別の面もわかりあえる気もする。それでダメなら仕方ない。客観的に「そういうひとか」と思えばいい。こっちだって「こんなひと」なんだから。
2007/11/12 (Mon)
厚顔でいこう。

地下鉄で大きな荷物を持つ5、6人の若い女の子をみた。全員が完成していない髪型、、、例えばカーラーで巻いたけどほぐしてない感じだとか、落ちそうなぐらいのやんわりとしたクリップ留めだったりという曖昧さで、眉の印象がなく青白い顔はおそらくお化粧っけゼロのすっぴん。大きなホールのあるほうへ急いでいたから、たぶんヘアメイクコンテストでもあるのかと想像するけれど、それにしてもお化粧するしないで、こんなに落差があることに驚いた。彼女たちの普段の顔を見たわけでもないのに、である。
どこか弱々しい感じの彼女たちに比べ、年中すっぴんの自分が平気な(しかも強気な)顔で電車に乗っていられるのは、ツラの皮という厚化粧のせいなのかと、ふと我にかえった次第。
2007/11/9 (Fri)
なるほど。

「求めない」という本が人気らしい。ほんの数行の広告を見ただけでもストンと気持ちが落ち着くものだから、いつものように買わずに自分流にアレンジしてみる。不思議なことに「求めない」心でいたら、周りからあたたかな気持ちが降ってくる。あるいは、今まで気づかなかっただけのそれに気づく余裕ができたということかもしれない。
2007/11/8 (Thu)
痛み

思えば小学生の頃からいつも身体のどこかが痛かった。背中だったり、胸だったり。言うと、心配した親に病院に連れて行かれたけれど、それで治ったためしはなく、別のところが痛くなる頃には最初の痛みが気にならなくなるというくり返し。だから膝が痛くなると、そろそろ肩は治るかな、、という具合。病院に行かなくても治るときがくれば治るものと信じている。
それに大病せずに今までこれたのも、こんな風にチビチビと悪いところが分散しているおかげかもしれなくて。だから、私にとって痛いということは大袈裟にいえば生きていくための試練なんだろうね。
2007/11/7 (Wed)
きもの縁

織り姫と彦星のごとく、一年に一度だけ着物姿で会う方たちがいる。一年に一度でも5回目ともなると長いつきあいのように思えて、顔をみると自然と笑顔がこぼれる。へんにテンションが上がりすぎてちょっと疲れてしまったのも事実だけど、ハレバレと楽しい時間だった。年齢も何をしているかもほとんど知らない仲だけど、着物が好きという共通項のおかげで知りあえた「えにし」に感謝している。
2007/11/2 (Fri)
笑っていたかな。

何人かの近しい人を亡くしてきた。思い出はいろいろ浮かぶけど、その人とかわした最後の会話はなんだったろうかと、ふと考える。とくに突然の事故や病気で目の前からいなくなってしまった人とは、これが最後と思わずにしゃべっていたのだから。できれば笑顔で、楽しいことを話したんだったらいいな、と思う。何気ないひとことで傷つけていなければよいのにと。
いつもいつも「これが最後」の気持ちでいれば、なんでも許せる気もするけれど、、、そうはいかないこんこんちき。
2007/11/1 (Thu)
15秒のドラマ

男女二人が登場するユニクロCMシリーズが魅力的。ケンイチ・サトエリのジーンズに始まって、ヒートテックシリーズの中谷・大沢、麻生・南朗。お茶の間目線で健康的に語られる商品特徴じゃなく、ふたりの会話から伝わるどきどき感にふと手をとめて見入ってしまう。つかのまのドラマモード。
そして吹越・龍平バージョンのいわゆるステテコ!「あり得ない」はずの若いオトコも「履いてみよっか」って思わせる?
まずはあたたかい思い出。モノは脇役でこその演出。うまい。
2007/10/31 (Wed)
いずこに。

「さがしものは最初にさがした所にある」という持論。何度も裏付けてきたけれど、今、見つからないものがある。直感、映像としてあそこにあるべきはずのものが出てこない。となると、第三者の介入か、などと疑惑のまなざしの先には、、。たいして困るものじゃなく、だから今までちゃんと片付けなかったものだけど、沸々と沸いてきた疑問を解決するためには出てきて欲しいブツである。さて、あとはどこをさがせばいいのやら。(つづく)
2007/10/30 (Tue)
kossori

「自分ができることをしているだけ」環境問題を考えるひと、辻信一さんの言葉である。
できるだけ歩くことも、お弁当や水筒を持参することも、無駄にエネルギーを使わず、ゴミを出さず、誰にも迷惑をかけないために。でもそれは「なるべく」でいい。声高に叫ぶでもなく、誰かに強制することもなく、もちろん苦しむこともない。楽しいからやっていること。大学内の誰も歩いていない廊下の灯りの半分をそっと消す、、そのこっそりとスイッチを消すときの笑顔がいい。その楽しさ、わかる。遅まきながらマイお箸を持ち歩いて、楽しさ享受中。
2007/10/29(Mon)
夢にでる。

忘れた頃に見る夢がある。
出かけないといけないのに着る服が決まらない。
現実にもそれはたまにあることで、そのときは一番シンプルな格好に落ち着くのだけど、夢ではそう簡単にあきらめられなくて、次から次へととっかえひっかえ、、、果てしなく葛藤がつづいたあとの最低の目覚め。
たいていは「言わなきゃよかった」「言えばよかった」の脳内堂々巡りが原因で。
へんな方向へ動きだした脳みそは、すべてお見通し神サマにお詣りしてようやく帰ってきたところ。
2007/10/26 (Fri)
ほととぎす

雨の日に、しげしげとほととぎすの花を眺めている。友人が手折って持って来てくれた二枝には、小さなつぼみ、中ぐらいのつぼみ、大きなつぼみ、少し開きかけているもの、そして形よく開いたもの、すべてが揃っている。そのひとつひとつが完璧で美しく、不思議に満ちていてほんとうに「よくできている」。この夏ベランダで咲いた綿の花が固くなって本当に綿ができたり、無骨なサボテンに狂おしいほどの大輪の花が咲いたり、そのたびに、ほぉっと感心するばかりの人間は。 人間は、姿形の美しいひとはいるけれど、よくできているのは目に見えない部分にある。そして、話したり、動いたりすることでその人からたちのぼってくる何かに人は感動する。でもそれは決して完璧ではなく、寄り添えばあたたかい犬や猫と同じレベルの、ただそばにいるだけでいいものかもしれない。
2007/10/25 (Thu)
はなうた気分で。

前は興味のなかった本を読んだり、逆にあれほど好きだった役者を追っかけなくなったり、なんだか爪を切るたびに身体だけじゃなく心も変わっていく。そのひとつづつの期間がどんどん短くなっているのが気がかりだけど「あ、またか」とそういう自分を客観的に眺めることにも慣れてきた。たしかに変わらないものがあるからこその心移り。新しい「好き」を見つけにいく元気さえあれば、生きることは遊ぶがごとく。(とりあえず、きょうは元気)
2007/10/24 (Wed)
読めばわかる、か。

「その絵を欲しいと思う」以上のその絵に対する評価があるだろうかと誰かが書いている。 人を紹介してくれようとする人が「この人のヒトトナリがわかるよ」と言って、私が書いたブログをすすめてくれることは、ちょっとそのニュアンスに似て、実はとてもうれしかった。ほんとのところは喜んでいいのかどうかはわからないけれど。ほめもせず、けなしもせず、その距離感のある評価が新鮮だった。
2007/10/23 (Tue)
十三夜に忘れ物をした。

出かける途中、百貨店で買った明朝に食べる予定のコーン入りパン、270円也を会議室に置いてきた。地下鉄ひと駅分取りに戻ったり心あたりに電話したり一応努力はして、あきらめはつかなかったけれど別のパンを買ってためいきをつきながら帰ってきたら、持って出てくれた人から電話が入った。最良のパターンに落ち着いてみたら、あんなに「まいった」気持ちはすっかり反転。なんて楽しい十三夜のできごと。
2007/10/22 (Mon)
伝える

「本当に伝えたいことは小さな声で」どこかでひっかかったフレーズをときどき思い出す。 大きな声は騒音と紙一重、ただうるさくて聞き流されてひとの心にとどまらない。 だから大切なことは耳もとで、ささやくように伝えよう。
2007/10/20 (Sat)
なんじゃ忍者

小学生の頃、道の端っこばかりを歩いていた。側溝のふたの上をずっと歩いていると電柱にぶつかるので、そのときは電柱と壁とのあいだを抜けた。「忍者みたい」ってともだちに言われたのはあの頃だけ。決して俊敏な、という意味ではなくて。本人もそこが好きとか、暗い性格だったというよりは「修行している感じ」がなんかよかったんだと思う。影響を受けるようなまんがが流行っていたという記憶はないけれど、隅っこの細い敷石の感覚は今も足の裏に残っている。
2007/10/19 (Fri)
見るだけ。

「顔トレ」にひかれている。実験中のサイトを見たり、ヒントをもらって実際に真似して目を大きく見開いてみたり。そうして気づいた。あれは自分の顔を見つめる機会をつくる機械なんだと。いや、だじゃれじゃなくて。 風呂場に全身が映る鏡を置けば自ずと全身チェックしてしまうのと同じ。一日で合計5分も鏡を見ない人間(私)がトレーニングしている間、自分の顔を見つめる。それが効果を生むんじゃないかな。
2007/10/18 (Thu)
添加物

ワイドショーは人生の添加物。毒だけど、ちょっとおいしいフリをしていて軽い中毒症状がでる。手遅れになる前に電源オフ。
2007/10/17 (Wed)
へんしーん。

暑くて長い夏の代償として、穴のあいたTシャツ3枚を小さく刻んで使い捨て雑巾にし、ほつれたガーゼのパジャマ、膝がぬけたジーンズ2本は思いきって処分した。代わりのものもちゃっかり買ったので結局は+−ゼロだけど。 収納場所と同じで容量が決まっている頭のなかも、慣れ親しんだ習慣をひとつやめることで新しいなにかに出会えるかもしれない。なんて、ちゃっかりはちべえは考えた。
2007/10/17 (Wed)
似てる

トラックを誘導しているらしい「オーライ、オーライ」の声が今はやりの小島ナントカの声に似てて、ひきつけ笑いをしてしまう。正直、海パン一丁で踊る芸はスキではないからね。あの声は外で働くおとこの声と共通した何かがあって、窓の外には小島ナントカがいっぱいいるみたいで困っている。
2007/8/31 (Fri)
包む。

母が昔近所でお茶を習っていた頃、いつもバッグの中から懐紙に包んだお菓子が出てきた。「ちょっとお茶のもかあ」というときに、それをふたりで食べていたのを覚えている。 昨日、出先で出されたお菓子を同じようにナフキン(懐紙を持ち歩くべきだな)に包んで持ち帰ってきた。その少しくちゃっとなった紙に包んでいたのは「これを食べさせてあげたいな」という気持ちだったんだと気づいた。そんな相手がいることが小さくて温かい幸せなんだということも。