「1日に消費する酸素の量において人間は平等であるべきだ」
酸素のもとの平等、ということを考えています。 |
酸素消費の平等
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人間は、何時かは死にます。死ぬということに関して人間は平等。生きているうちにどんな生き方をしようと死に至る。 オイルショックのあと人々は、「モノを大切にしよう」と言い、「バブル崩壊」のあと「心が大切だ」と言い、瞹昧で短絡的な二者択一的思考をくり返し、さらにITバブルを経験し、さらにデフレを実感し、2001.9.11をも体験してしまいました。 21世紀、日本という国で、どんな価値基準を持ったらいいのでしょうか。 そんな事を考え続けた90年代はじめ……頭の中に「酸素消費の平等」という一行がヨギリました。 死ぬ平等と同じように、生きているうちにひとりの人間が消費する酸素の量において、平等であるべきだという価値基準。 からだの大きさの違いや寿命の違いはあるけれど、人間1個体において消費する酸素の量は地球規模から考えると許される範囲。しかし、私たちは、それ以上の酸素を浪費しています。 40年間成長し続けてきた黄金の島ジパング。私たちの先達が作り上げた幸せの実像。 汚れた空気を吐き出し、世界を走り回る多数の自動車。食べる以上に、獲られて冷蔵庫に山積みされた魚。ティッシュペーパーと札束に変身した東南アジアの緑の山。干上がった地下水脈と汚れて吐き出された工場排水が流れる川、そして海。環境ホルモン、ダイオキシン…… 「1日に消費する酸素の量において人間は平等であるべきではないか」と問いかけることによって、行動に別の視点を与える。 |
朝起きて食事を作る。ガスを使う。電気をつける。水を使う。出勤するとき電車に乗る。車に乗る。会社でクーラーや暖房に電気を使い、生産時に大量の水が必要なシリコンチップ入のマシンをつかって生活の糧を稼いでいる暮らし。
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